2021年(令和3)☟
江戸時代の刻と暦学習(第四回)
コロナ過の中、外に出られないなど時間を持て余してはいませんか?
今でこそカレンダーや時計があり、「そろそろ給料日だな
久しぶりに飲みに行くか」とか「あれーもうこんな時間だ
彼女デートの時間忘れているのかナ?」とか、現代では
日付や時間に対するイメージがわきますが、江戸時代(昔)の
人達はどのように認識していたのでしょう。
「昔の刻と暦」を学習しました。
3月2日(火)10:00~12:00 古城会事務局集合
学習した昔の時刻表
昔の時間の表現は、現在のような何時何分の時刻ではありません。
刻(とき)で表現しました。ねの刻(23:00~1:00)・うしの刻(1:00~3:00)・とらの刻(3:00~5:00)の様に
約2時間(夏・冬長さが違う)づつで表しました。
また「鐘の音 数 」で刻を知らせるため
九つ・八つ・七つと、上記の刻と対応しています。 ・・注:9・8・7と逆に見えるのは中国風(9が最上)の数え方、9ⅹ1=9・9ⅹ2=18・9ⅹ3=27の一の位を表した。
(数そのまま打ってたらうるさい・怒)
〈知っ徳〉・・鐘を打つ方は最初に鐘ひとつ鳴らし、「これから刻を告げるぞ」と、一息おいて(聞く方は聞く準備をした)打ち鳴らした・・・
刻を細かく分けて表現する場合は
うしの初刻(しょこく)1:00
*うしの刻の始まり
うしの正刻(せいこく)2:00
*うしの刻のど真ん中
→この時、鐘を八つならした。
刻を4等分して、うしひとつ1:00~1:30
・うしふたつ1:30~2:00・うしみつ
2:00~2:30・うしよつ2:30~3:00
と言ったりした。
親町まち歩き本町編(第五回)
問屋のまち「本町」を実際に歩きました。
博労町・伊勢町は本町の枝町になります。
明治時代に郵便物を始めた倉科家や、
江戸時代には城への客を一旦城外で泊めた
今井家も見てきました。
4月10日(土)9:30~12:00 南の十王堂集合
① 南の十王堂(じゅうおうどう)跡
すすき川を、北に渡ってすぐの路地にある南の十王堂は、「これより北はご城下である」と言う存在です。
民家の中にありました。
ご城下最南たんの十王堂は、本町の枝町で、町人の街「博労町(ばくろうちょう)」です。
これより北のお城を目指し、女鳥羽川を渡る手前までが本町です。
ここにみんな集まり
簡単に今日の行程の説明聞き出発です。
天気が良くてよかった。
② 緑橋(美登利)・振留(ふりとめ)橋
〈松本市史地名伝説〉
その昔この橋は長澤橋と呼ばれていました。明治11年(1878)破却した大手門の石垣で石橋とし、振留橋を「緑橋」としました。
元和元年(1615)大阪夏の陣に小笠原秀政と二子、忠なが・忠真出陣のおり。
忠真 若干、若武者で振袖姿に乳母が別れを惜しみ、
この地で袖にすがり付いた。忠真しばし迷いのあと振り切り立ち去った。
乳母の手には袖が残った
故事により振留(振袖)橋と言います。
大阪夏の陣の命令では、出陣は父秀政のみであり、二子は松本城にて留守居役でありました。
しかし留守居では居ても立ってもいられない二人は出陣しました。
これは重罪でしたが、家康のひ孫(母が信康の子)のためか許されました。
結果父・兄が戦死し、松本城は忠真が引き継ぎました。
〈知っ徳〉
本町通りの西側に、線路(松本駅)をまたいで
「巾上新道」があります。
大正末年巾上新道開通時、
この道を横断している長澤川に小橋を架け、なくなっていた「振留橋」の名を命名しました。
平成17年松本駅西口整備
でも 小橋を 架け替えましたが、この名を残しました。
③脚夫の像
松本郵便局発祥の地
・新まつもと物語より
江戸時代飛脚仲間によって信書が運ばれていました。
明治の世となり官営の郵便制度が全国ネットで導入され、明治5年7月1日「松本郵便役所」が、ここ倉科七郎宅跡に設置。松本における郵便局が発足しました。
郵便費用は松本~東京で二銭、日数は6日でした。
江戸時代問屋職兼本町の大名主を務めた倉科家は、初代の局長になりました。
松本市は平成2年4月21日「松本郵便発祥の地」を顕彰して「脚夫」のブロンズ像を設置しました。
松本信用金庫本町支店の前にありますが、小さくて注意しないと見落とします。
④ 乾瑞寺あと
本町を北上して
駅前とおりを渡ると、すぐ右が松本中央郵便局です。
局の北側路地を
右折しました。
本町通りから1・2分で、 乾瑞寺跡地にある 閑静な場所の 水野家墓所 に着きました。
合掌
〈知っ徳〉
女鳥羽川と大糸線が交差するあたりの白板の地に、乾瑞寺の末寺「東昌寺」があります。
乾瑞寺
水野氏2代松本藩主
水野忠職公が実の
弟の龍天和尚を京から招き慶安元年(1648)建立。
6代忠恒公は江戸城で、浅野内匠頭のように「刃傷沙汰」を起こしました。
これにより水野家は改易されました。(松本大変)
水野忠恒公改易後も存続した乾瑞寺は、明治初年(1872)の廃仏毀釈で廃寺となりました。
位牌は木沢正麟寺に安置されたあと昭和20年(1945)龍天和尚から15代水野栄次郎氏が自宅に安置。
上の写真の解説碑が16代水野秀一氏により建立されました。
⑤ 牛つなぎの石
左の信毎メデアガーデン前で、西側の通り、本町の枝町「伊勢町」方面を見る会員。
右後方は歩いて来た本町通り。
伊勢町通りと本町通りの分岐角にある、「牛つなぎの石」
ここが、北の大町・糸魚川への「塩の道」の起点となります。
⑥街道碑
まち歩きをしてきた本町編もいよいよ終点です。
松本城の方向を見て右に(東)に行けば、中町・東町を通って善光寺街道です。
まっすぐ行けば、女鳥羽川に架かる千歳橋を渡って大手門枡形跡のある武士の街、大名町(三の丸の一部)に入ります。
休館前の旧開智学校研修(第六回)
令和元年(2019)に国宝に指定された「旧開智学校」が三年間の
耐震工事で、来月より休館になる「その前に研修を」と企画しました。
明治初期市川量造先生が、松本城天守閣存続に奔走していた頃。
大都市の公共建築物が洋風建築様式に建立されました。
しかし地方では西洋学校様式の情報の少ない大工たちが、
旧開智学校を始めとする和洋折衷のオリジナルな
「擬洋風建築」が造られていました。
5月12日(水)9:30~12:00 旧開智学校駐車場集合
旧開智学校の他 祭司館・高橋家住宅 拝観
入館前の説明
旧開智学校学芸員遠藤さん
正面外観研修
1階・2階の窓、正面から見た時
右左の数が違う
シンメトリーでない。
玄関上ベランダ
雲形手摺や唐破風が東洋風です
唐破風の下の天使は明治の
はじめ一時不在でした。
正面玄関
右の窓下の石組み外壁に見えるのは
鼠漆喰に目地こて仕上です。
義民会館・刑場他研修(第七・八回)
皆さんは毎日炊き立ての美味しいご飯を頂いていますか?
当然たべてますよネ。しかしお米が出来てくる過程や農家さんの
生産する苦労話など、従事している人以外はご存じないでしょう。
今回は、江戸時代の飢饉が続く貞享(じょうきょう)年間、苦悩する農民の
「やむにやまれずの訴えを知ろう」と実施しました。
また初めての松本地区外研修となりました。
6月26日(土)学習会「お米について」 古城会事務局にて
7月13日(火)研修会 古城会事務局集合(担当車にて移動)
①義民会館
世話人代表が会館と打合せ中、玄関前で待機中の会員
学芸員の寺島さんから概要説明を聞く
首謀者を分からなくする、から傘連判状を
模してデザインした会館天井
2階展示室で説明を受ける
展示室内部
上が現在の稲・下が当時の稲、籾先のノギが長い。
②義民社周辺
奥にあるのが義民社
貞享義民顕彰慰霊の碑
多田加助の墓
③50年忌供養塔周辺
平成10年に、横に倒れていたのが発見されました。お上から隠したのか?
騒動の50年目には、すでに仲間が顕彰していたと言うことですね。
50年忌供養塔の近くに大イチョウがあります。
大銀杏の奥には、銀杏堂があります。
加助の片腕、小穴善兵衛の妻が、生涯菩提を弔ったお堂です。
大銀杏の前には処刑された、夫 善兵衛と同志への連絡役の娘しゅんと他4名の墓があります。
④昼食はうなぎ屋「しき美」さん
⑤熊倉の渡し
遺跡公園のモニュメント
安曇領から松本領へ行くには、この熊倉の渡しを利用するしかありません。
橋は激流時に何度も壊されました。
「モニュメントの碑文」
貞享3年(1686)11月16日朝もやの中松本領に護送された。遺跡公園建設にあたり史実の一端を記す。
平成3年4月
熊倉遺跡保存会
捕縛された 加助たちは、
この犀川を渡り、勢高刑場へ連行されました。
今日も犀川はとうとうと音を立て、安曇と松本を遮断しています。
⑥勢高(せいたか)刑場跡
勢高刑場跡は丸の内中学校のそばにあります。
義民塚への登り階段があります。
義民塚
⑦出川刑場跡碑
田川の右岸の堤防道路を、北上すると右下に広い草地があります。
草地の堤防脇に田川を向いて設置してあります。
この土地の管理は誰だろう
買い手は付かないだろうな。
南東(右上)にヤマダ電機が見えます。
街歩き第二弾・「中町」研修(第九回)
コロナも落ち着き、中断していた「研修会・学習会」を再開しました。
まち歩き本町編の続き「中町まち歩き」です。
中町と言うと「蔵の街」の印象があります。
屋根は瓦ぶき・外壁はなまこ壁の町並みですが、
これは江戸時代の物ではありません。
明治21年1月4日の大火が原因で江戸時代の町並みは消失しました。
(町名や小路は残されています)
再建時に県が類焼防止のため瓦屋根・隣家の間隔・壁の土壁化を
指令したことで作られました。
11月10日(水)9:30~12:00 大手門枡形跡(旧鶴林堂跡地)
・研修後そば屋入船で昼食・
中町まち歩きコース図
②大手門枡形からスタート
武家地大手門から中町へ向けて千歳橋渡ります
千歳橋の手前に本町編で見た道路元標
街道碑を左(東)へ曲がると中町
中町通り入口は工事中でした、通行注意。
④喰い違い
店がありまっすぐにはいけません。
右にクランクしています。
喰い違いの横にある「中町蔵の会館」
「ミドリ薬局」
大正10年創業で
外観は昭和2年完成
大正ロマンがあります。
⑤はかり資料館
はかり資料館は
竹内度量衝店が前身
測る・計る・量る道具を
展示、 観覧料は200円
昭和61年に店じまい。
平成元年8月 松本市は、
はかり資料館として
オープンさせました。
東京の竹内金庫店に奉公し、のれん分けを受けた
伊那市生まれの田中敬一郎氏が創業しました。
度量衡の免許を取り中南信を商圏としました。
資料館の学芸員さん(中央)に館の概要聞きました。
薬包紙(やくほうし)の包み方を
挑戦中の会員
むかし薬飲む時お世話になりました。
今は機械で包むそうです。
重さをはかる
長さをはかる
剣と天秤を持つ目隠しをした正義の女神=テミス像
(ギリシャ神話)
司法・裁判の公正さを
表わすシンボル
明治の大火の様子が「写真展示」
大火による被災地域図
黄色に挟まれた白地は、女鳥羽川で一本南の通りが中町通り。
黄色は、明治21年1月4日に1500戸焼失。
城内 大名町・六九町他も消失している。
明治19年・21年・45年、3回大火が起きている。
北深志の大火
赤色・緑色の北方面は明治45年(1912)
4月22日、正行寺門前で出火し、南南東の烈風で 東町・片端町~田町・新町・袋町~和泉町~安原町~同心町を焦土化。
家屋1,311戸・土蔵79棟を全半焼
神明小路
なまこ壁の間をすすむ。
中町の守護神「神明宮」は
元禄13年に竣工しました。明治21年の大火の時この神明宮で食い止められ
鎮火したと、古老の話が残ると由緒は伝えています。
神明小路は、ぬけると女鳥羽川に出ます。
ぬける手前は、現在は土蔵造りのそば屋さんです。
女鳥羽川の護岸が見えます。
神明通りを引き返し中町通りを進みます。
中町を抜け大橋通りを渡って、振り返り中町通りを見る。
「伊織霊水」
貞享騒動のおり農民に好意的であった、鈴木伊織の墓所があります。
女鳥羽川の鍛冶橋から、念来寺の鐘楼がある妙勝寺を見る。
旧松岡病院に着きました。
むかしよく通った、飲み屋街「裏町」通りの南外れにあることが、解りました。
⑨旧松岡医院
国の登録有形文化財
大正13年(1924)木造2階建・洋風医院兼住宅として建築。
外壁はモルタル塗り目地切りで石造りに見せている。
昭和50年中ごろまで医院として使用して来た。所有者が松本から離れるため解体を検討していた・・・
・・・所、かわかみ建築設計室が賃借活用することとなり解体を免れた。社員さんが案内してくれました。
東門を通りお城に行く
ここはむかしは総堀の中。
その上を、北に向かっています。
この小川は総堀の名残で、女鳥羽川に向かって(南)流れています。
階段を上りあがると
「東門」跡にでました。
左の建物は松本ホテル「花月」です。
大天守登城と七不思議(第10回)
本年もあと一ヶ月となりました。
今年を振り返れば「松本城に関わるニュース」が数多く
報道された年でもありました。
外堀計画では、地表のみの「平面計画」から掘削による外堀の
「水を張った全周外堀」の実現が進み出しました。
また内堀・外堀・総堀を含め「泥を抜く浚渫(しゅんせつ)予算」が付き
令和5年度から始まります。
そして今夏から始めている「南外堀の発掘調査」では
くい列が出てきました。
世界遺産では「国宝5城と連携」の正念場を迎えています。
このように機運が盛り上がる今年最後は
「大天守登城」を実施しました。
12月1日(水)12:00~13:30 毎年恒例の古城会員での
「落ち葉清掃・冬囲い」の後